●逃亡は損か得か
逮捕状が出たことを知って、(有)神世界教祖・S藤Tら4名はいち早く逃亡した。警察は必死に彼らの行方を捜索中だが、まだ逮捕に至っていない。彼らを取り逃がしたことは誠に残念であり、できるだけ早期に逮捕してほしいが、このまま彼らが長期間にわたって逃亡を続けた場合、果たしてそれは彼らにとって「有益」なのだろうか。
長期間にわたって逃亡していた被疑者が逮捕された際、「捕まってほっとした」と述懐する場合がよくある。捕まった者が思わずそうした述懐をしてしまうのは、自分に逮捕状が出されているのを知っていながら長期間逃げ回るのは、被疑者にとって大変辛い日々であるからだ。
氏名や身分を偽り、カツラをつけたり眼鏡をかけて変装し、人の目線を避けるためにできるだけ外出を控え、四六時中追ってくる警察の影に怯え、文字通り”日陰者”の生活が長期間続くことになる。やむを得ず外出する際は、街角の防犯カメラを意識せねばならない。今はコンビニでも、ファミレスでも、クスリ屋でも、どこの店に入っても至る所に防犯カメラが設置されており、できるだけそれらの防犯カメラに写らないように神経を配らねばならない。
残してきた子供達の様子を確かめたくなっても、電話をかけることもできない。公衆電話から電話をかけても警察はたちまち居所を割り出してしまう。自分の携帯電話はもちろん使えない。他人の携帯電話を借りて子供に電話やメールをしようにも、携帯番号やメアドは自分の携帯の電源を入れねば見ることができない。ほんの一瞬でも自分の携帯の電源を入れれば居所が割り出されてしまうことは、酒井法子が逃亡中に一瞬携帯の電源を入れただけで居所が判明したことからも明らかだ。警察は本人らだけでなく、被疑者に関係のある者の携帯についても通信記録をこっそり見ているかもしれないので、支援者の携帯であってもうかつに使うことはできない。かといって今からプリペイド式携帯電話を買いに行くことも危険でできない。
クレジットカードを使えばたちまちに居所を突き止められてしまうのでカードは使えず、支払いは全て現金払いしかできない。所持金が少なくなってきても、ATMを利用すればたちまち居所が知られてしまうので銀行ATMで金を引き出すこともできない。郵便局にも警察の手は回っているだろうから使えない。
ネットの情報を確認したいが、インターネットカフェを利用する際は身分証明書の提示を求められるので免許証を出すこともできない。レンタカーを借りようにも免許証を提示できないので借りられない。運転免許証の更新時期が来ても免許センターに行けばたちまち捕まってしまうので行けない。
万一病気になっても医者にかかることもできない。長期間の逃亡生活による精神的ストレスは胃潰瘍の原因にもなる。父親と同じように胃潰瘍になり、病状が悪化しても医者に行くことはできない。虫歯が痛み出しても七転八倒するしかない。交通事故に遭っても素性がばれるので、走ってくる自転車に対しても気を配り、こちらから避けるように気をつけねばならない。
かくまってくれている者がいる場合でも、あまり長期間になると、かくまうのが負担になり、その者が犯人蔵匿で逮捕されることを恐れ、こっそり警察に通報することになるかもしれない。組織犯罪処罰法違反に問われていることが報道されたので、犯罪収益は全て没収される可能性が高く、支援者や弁護士に払う金も早期に底をつく可能性が高い。
逃げ続けることによって、そのうち罪が消えるのならともかく、すでに被疑者として特定されている以上は時効によって容疑が消えることはない。検察が起訴を繰り返せば何年間経っても時効にはならない。
一時の損得勘定から、逃亡という卑劣な手段に走ってはみたものの、冷静に考えてみると、長期間にわたって上記のように多くの制約を受けながら逃亡生活を続けることに何の意味があるのだろう。人が人として生きていくためには、「自由」がなければ本当の意味で生きているとは言えない。逃亡者に一切の自由はない。逃亡者としての生活は、人として当然あるべき社会との関わりを一切断った生活を続けねばならない。常に逮捕されるかもしれないと怯えながら、ビクビクして暮らすことは、それは本当の意味で生きてるとは到底言えない。
しかし、愚かな教祖らは、目先の逮捕を免れることだけに意識が集中してしまい、長期間の逃亡生活がどれだけつらいものであるかに思い至ることなく、今後も逃げ続けるのだろう。彼らの心が落ち着くことはついぞなく、つねに何かに怯えながら社会の片隅で逃亡者として薄氷を踏むような生活を今でも、そしてこれからも教祖らは続けていくのだろう。
神世界被害者にとって、教祖らが逃亡したことは誠に残念であり、できるだけ早期に逮捕されることが望ましいと思っているのは当然だ。しかし、彼らがこの先、更に逃げ続けたとしても、それは逃亡者としての辛い状態が続くだけであり、逃亡生活の辛さを考えれば、教祖らに向かって、”ざまあみろ”と言って冷笑してやりたい気持ちになることもできる。逃亡することで身柄拘束から逃れることはできるが、教祖らの生活はこれまでの贅沢な暮らしとは全く違う。不自由で、警察に捕まることに怯えながら、コソコソと逃げ回っている姿は、見方を変えれば、すでに一種の”刑罰”を受けているようなものだ。大規模な霊感商法詐欺を働いた代償として、刑務所に入る前から逃亡者としてまず十分苦しんでもらい、逮捕されてからは正式に犯罪者として刑務所の中で罪を償ってもらうのも一興かもしれない。
教祖ら4名がそうした二重苦を味わねばならないのは、犯した罪の大きさから考えて、まことに釣り合いがとれたものであり、”天秤の法則”にかなっているのかもしれない。